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6. アラン・ドロン追悼

 

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6. アラン・ドロン追悼

北田敬子


アラン・ドロン(1935-2024)の訃報に接し、深い感慨を禁じ得ない。『太陽がいっぱい』(1960年ルネ・クレマン監督)を初めて見たのは高校生の時だった。リアルタイムでロードショーを見たわけではなく、再上映される少し古い映画として鑑賞したに過ぎない。しかし、主演のアラン・ドロンの印象は強烈だった。金持ちのフィリップに対する卑屈で羨望に満ちたまなざし、犯罪を隠蔽しながら彼に変わってなり上がっていく野望と破天荒な策略、そしてラストシーンで見せる屈託のない笑顔、どれを取って見ても破滅的な美の化身のようだった。

大学に進学した時、私が第二外国語に躊躇わずフランス語を選んだのは、アラン・ドロンのためだった。彼の台詞を原語で味わえるようになりたくて必死で学んだ。チンピラじみた軽口も、威勢の良い叫びも、深く甘いささやきもフランス語で味わいたかった。後に彼が と呟くレナウンのコマーシャルにすら痺れた。映画俳優に憧れるなどというのは傍から見ればミーハーの極み、これほど滑稽なものもないだろう。だが、恋に落ちるとはそういうものではなかろうか。

60年代から70年代に公開されたアラン・ドロンの出演する映画は何本も見たはずだ。それにしては内容をハッキリ思い出せるものがあまりない。フィルモグラフィーをあらためて辿ってみると70余りある作品は所謂名画から、大衆娯楽もの、ロマンスなど様々なジャンルに跨る。であるにもかかわらず、今も記憶に刻み込まれているものの一つが、マリアンヌ・フェイスフルと共演した『あの胸にもう一度』(1968年 ジャック・カーディフ監督 英仏合作 原題は”The Girl on a Motorcycle”)というのには我ながら苦笑を禁じ得ない。なぜなら、これは裸身で皮のバイクスーツに身を包み、恋人(アラン・ドロン)の元にバイクで会いに行き、最後は飲酒運転で派手に事故死する女の物語だからだ。命を賭して、いや理性のかけらもなく熱愛に身を投じる愚かな女と、誠意の片鱗もない男の道行きを描く物語。いやはや正に「悪魔のようなあなた」。

当時、私のように批評精神には程遠く、ひたすらにアラン・ドロンの美貌に酔いしれた女性ファン(もしかすると男性も?)は大勢いたようだ。レナウンの宣伝のことを考えれば、「ダーバン」を着ることでアラン・ドロンに変身する願望を抱いた男性も多かったかもしれない。冷静になって考えれば正に「ルッキズム」(外見至上主義・外見差別)の極みだ。もっとも、若かった頃も、中年になっても他者の注目に耐える端麗な容姿を保ち続けるのは一つの芸かもしれない。しかし、アラン・ドロンが老醜をさらす名演技でスクリーンに生きたという話は聞かない。

おそらく、これからアラン・ドロンの再評価が始まることだろう。映画が観客を虜にし、俳優への興味や憧れが動機となるような行動を促した時代があった。(日本人女性がツアーを組んで、パリでアラン・ドロンとのディナーを楽しむ企画なんて!)映画の潜在力に改めて光を当てることで、「熱狂」の意味や「欲望」の正体も明らかになって来るのではないだろうか。多様な娯楽の渦巻く現代、際立ったスターが牽引する映画はもう望めないかもしれない。それより、映画が発掘し得る人間、自然、時間の奥底に眠るミステリーは無尽蔵だと想像し期待することは可能であるに違いない。

Alain Delon, mon amour!

2024年8月20日

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